[一]
民話の世界は民衆の心の世界と向かい合っている。これは言い換えると、次の二つのことを含んでいる。一つは、文字を読むことも書くこともできなかった民衆が自分たちの願いや喜びを語りにこめて、次の世帯へ、更に次の世帯へと伝えていったものが民話であるということである。文字をあたない人々の文芸であったということである。封建制の世の中において人々が本音を吐くということは、たいへん困難であっただけでなく、しばしば生命の危険を覚悟しなければならなかったことはいうまでもないだろう。自分たちの言いたいこと、願っていることがあっても、それを明確に表現することは機構的に閉ざされていた。人々は、建て前と本音とを区別し、使い分けることを(ア)学びとり、慣習化してきた。公の場所では、沈黙か、さもなければ建て前の言葉を口にするか、どちらかしかなかった。だから、この建て前の言葉から民衆を理解しようとしたら、それは民衆の本来の姿とは全く違ったものにならざるをえない。本音の中にのが、民衆の心は生きていたのである。そしてその本音と結びつくものの一つが、民話であったといってよいだろう。役人の前で御無理ごもっともというのは建て前の表現である。「熊は避けられるが、役人は避けられないからなあ」ているのである。だが、この実態の認識がそのまま民話につながるのではない。避けられぬ役人をなんとかして避けてߺたい、あるいは߿っつけて߿りたいという願望、これこそ口に出しては言わないが、本音の中の本音であろう。この本音の中の本音が、民話の世界につながる民衆の心の世界だと言いうる。「熊は避けられるが、役人は避けられないからなぁ」という実態認識の本音は、むしろ世間話につながる民衆の心の世界だと言いうるだろうだから、世間話では、民衆の憤りや詠嘆はあっても、そこから抜け出す、あるいはそれを打ち倒す夢は語られていない。やはり民話は、実態認識のもう一つ奥にある本音の世界とつながっていると考えられる。