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美しい言葉とか正しい言葉とか言われるが、単独に取り出して美しい言葉とか正し い言葉とかいうものはどこにもありはしない。それは、言葉というものの本質が、口 先だけのもの、語彙だけのものではなくて、それを発している人間全体の世界をいや 応なしに背負ってしまうところにあるからである。人間全体が、ささやかな言葉の一 つ一つに反映してしまうからである。そのことに関連して、これは実は人間世界だけ のことではなく、自然界の現象にそういうこともあるのではないか、ということにつ いて語っておきたい。
京都の嵯峨に住む染色家志村ふくみさんの仕事場で話していた時、志村さんがなん とも美しい桜色に染まった糸で織った着物を見せてくれた。そのピンクは、淡いよう でいて、しかも燃えるような強さを内に秘め、華やかでしかも深く落ち着いている色 だった。その美しさは目と心を吸い込むように感じられた。「この色は何から取り出 したんですか。」「桜からです。」と志村さんは答えた。素人の気安さで、私はすで に桜の花びらを煮詰めて色を取り出したものだろうと思った。実際はこれは桜の皮か ら取り出した色なのだった。あの黒っぽいゴツゴツした桜の皮からこの美しいピンク の色が取れるのだと言う。志村さんは続けてこう教えてくれた。この桜色は、一年中 どの季節でも取れるわけではない。桜の花が咲く直前のころ、桜の皮をもらってきて 染めると、まるで絵のような色が取り出せるのだという。
私はその話を聞いて、体が一瞬揺らぐような不思議な感じに襲われた。春先、もう 間もなく花となって咲かそうとしている桜の木が、花びらだけではなく、木全体で懸 命になって最上のピンクの色になろうとしている姿が、私の脳裏に揺らめいたからで ある。花びらのピンクは、幹のピンクであり、樹皮のピンクであり、樹液のピンクで あった。桜は全身で春のピンクに色づいていて、花びらはいわばそれらのピンクが、 ほんの先端だけ姿を出したものにすぎなかった。
考えてみればこれはまさにそのとおりで、木全体の活動の神髄が春という時節の花 びらというーつの現象になるにすぎないのだった。( ア )我々の限られた視野の中では、桜の花のピンクしか見えない。たまたま志村さんのような人がそれを樹木全 身の花として見せてくれると、はっと驚く。
このように見てくれば、これは言葉の世界での出来事と同じことではないかという 気がする。言葉の一語一語は、桜の花びら一枚一枚だといっていい。一見したところ 全然別の色をしているが、しかし本当は全身でその花びらの生している大きな幹、そ れを、その一語一語の花びらが背後に背負っているのである。そういうことを念頭に 置きながら言葉というものを考えるという必要があるのではなかろうか。そういう態 度をもって言葉の中で生きていこうとするとき、一語一語のささやかな言葉の、ささ やかさそのものの大きな意味が実感されてくるのではなかろうか。それが「言葉の力」 の端的な証明でもあろうと私には思われる。