单选题
ぼくらは、自由という言葉にある重さを感じる。自由と勝手とは似て非なるもので、自由を与えられると、その尊さ故にどう扱っていいかと緊張するのである。そのように教えられたわけではないのだが、その解釈する感性が尐なくとも備わっていたということだろう。 日常の仕事のことでもいい、ちょっと思い返すと、①それが実感できる。
②自由におやり下さいと言われると、無邪気に、あるいは無責任に、これは楽だと思えるだろうか。
自由におやり下さいの自由は、あなたの思うままお好きな世界を構築して結構ですという、全幅(注1)の信頼や神の如き好意ではないのである。
もっとつき放している。お手並(注2)拝見という底意地の悪さもある。だから、言われた側の本心としては、自由にやらせていただけるのですかと、感動のリアクション(注3)を示しながら、実は大して期待していないな、要するにあてにされていないなと思ったりするのである。
それもこれも、自由という言葉の持つ重さと、それを使いこなす困難さを知っているからである。だから、ぼくらは若い時、自由に書いて下さい、自由に解釈して下さい、自由に生きて下さいと言われると、捨てられたような戦慄を覚えた(注4)ものである。 自由に善玉、制約は悪玉だと伝えられているが、制約を示された方が人は安心して生きられるところもあるのである。
(中略)
ぼくは、自由を理解し、自由を享受し、自由を主張するためには、無免許であってはならないと思っている。尐なくとも許されることと、許されざることの判別が可能な人だけに交付されるべきなのである。
(阿久悠『清らかな厭世—言葉を失くした日本人へ』による)
(注1)全幅:最大限
(注2)手並:技量
(注3)リアクション:反忚
(注4)戦慄を覚える:ここでは、ひどく恐ろしいと感じる
单选题
①それが実感できるとあるが、何が実感できるのか。
单选题
②自由におやり下さいと言われると、どのように感じると筆者は述べているか。
单选题
この文章で筆者が最も言いたいことは何か。