41 . 近代化と 産業化の社会の文化と は 、 本質的には 「複製」 の文化であり 、 よ り 具体的には 、 「媒体」 の文化だと いえる だろう 。 個人と 個人のあいだに巨大な情報媒体がは いり こ み、 その分だけ、 個人どう し の直接的な交流の機会がと ぼし く なる 文化だ、 と いいかえても よ い。
も っ と も わかり やすい例は 、 1960 年代を支配し たテレ ビである が、 当時、 こ れが茶の間には いり こ んだ結果、 家族間の直接的な会話の機会が少なく なっ たと 嘆かれていた。 42 . テレ ビが供給する 文化は 、 音楽であれドラマであれ教養講座であれ、 要する に、 なま 身の表現の複製にほかなら ず、 こ れは 万人にたいし て平等に、 し かも 均質な情報を提供する こ と ができ る 。
43 . テレ ビ文化は 、 個人がどこ にいても 等し く 受けと る こ と ができ 、 機械的に何度でも 反復する こ と ができ る も のであり 、 ま さ に空間と 時間を超越し た文化だと 見る こ と ができ る 。
そし て、 近代の産業化社会は すべての文化を複製化し 、 こ と ごと く 巨大な機械的な媒体に乗せよ う と 努力し てき たと いえる 。 こ の産業化のおかげで、 現代人は 泰西名画を書斎の全集で眺め、 パリ ・モードの既製服を身につけて、 一流ホテルの料理を冷凍で味わう こ と ができ る のであっ て、こ れは 人類文明の偉大な勝利だと いわなければなら ない。 今後も 、 人間の欲望と 平等の思想が変わら ないかぎり 、 一方において、 文化の複製化の努力は と どま る と こ ろなく つづけら れる であろう 。
44 . だが、 その反面、 人間の文化にたいする 本質的な要求から 見る と 、 こ の複製化には いく つかの重大な無理があっ て、 やがて、 人びと は それだけでは 足でき なく なる のが自然なのである 。 文化と は 、 要する に、 人間と 人間の心の交流の成果であり 、 精神的な意味でのも てなし の産物なのであるが、 そう だと すれば、 その原型は やは り 、 人間どう し のなま 身の接触にある から である 。
45 . たし かに、 なま 身の人間は 空間と 時間を超越する こ と は でき ず、 心の交流をし よ う と すれば、 必ずどこ かある 場所で、 ある 一定の時間に会わなければなら ない。 ひと つの幸福な心の交流は 、 その時と 場所をおいて二度と 反復でき ないも のであっ て、 逆にいえば、 それが一回かぎり だと いう こ と が、 ま すま すその交流の充実感を深める のである 。
(山崎正和「自己発見と し ての人生」 よ り )
所谓现代化和工业化社会的文化, 本质上是 “ 复制 ” 的文化, 更具体地。 可以说是 “ 媒体 ” 的文化吧。 巨大的信息媒体潜入每个人和每个人之间, 并正因为如此, 可以换句话说, 这是减少了个人之间直接交流机会的文化。
句型重点: 「~と は ~と いえる だろう 」 「~と いいかえでも よ い」
电视所提供的文化, 不论是音乐、 电视连续剧还是教育讲座, 最关键的是, 正因为是现实表现的复制, 所以对大家来说都是平等的, 而且能够提供均等的信息。
句型重点: 「~であれ、 ~であれ、 要する に、 ~にほかなら ず」
可以看出, 电视的文化是个人无论在哪里都能平等接受的、 能无数次机械反复的、 的确是超越空间和时间的文化。
句型重点: 「~と 見る こ と ができ る 」
但是, 相反, 从对人类文化的本质需求来看, 这种复制的文化有几个重大的不合理之处, 很快, 人们只靠那些自然就很难满足。
句型重点: 「~から 見る と 」
的确, 现实的人是不能超越空间和时间的, 想要进行心的交流的话, 必须得在某个地点、 在某个特定的时间相遇。 一个幸福的交流, 在那个时间和地点是不能重复的。 反过来说, 正是因为只有一次, 所以才能越发加深那种交流的充实感。
句型重点: 「~よ う と すれば、 ~なければなら ない」