古い相撲ファンなら1961(昭和36)年の秋場所を忘れまい。優勝争いの末、大関の柏戸と大鵬がそろって横綱昇進を決めた舞台である。「柏鵬時代」を告げるその場所で、両雄を押し出した猛者がいた。突貫小僧と呼ばれた小結、前田川だ。彼の殊勲が語り継がれる理由がもう一つある。柏鵬以外に全敗したことだ。伸び盛りとの対戦に精根を使い果たしたような2勝13敗。前田川は後年、「十両に落ちずに年59敗」という妙な記録も残した。長い相撲史は珍談奇聞に満ちる。九州場所の日馬富土は、記録と記憶の両方に刻まれよう。新横綱への期待を裏切る9勝6敗。クンロクは弱い大関を腐す言葉で、およそ最高位の星ではない。終盤の5連敗も新横綱では例がないという。反射神経に任せた日馬富士の取りロは、サーカスの味である。九州でも、綱渡りの土俵際に審判が「勝負あり」と勘違いし、相撲を止めてしまう珍事が起きた。速さは魅力でも、ドタバタは最高位にそぐわない。慣れない土俵入りのストレスもあったはずだ。本人は「いい勉強になった」と強がるが、勉強はひと場所限りと願いたい。綱の重さに耐えながら、23度目の優勝を飾った白鵬の大きさを思う。51年前、大鵬と柏戸が新横綱で迎えたのも九州場所だった。前者は13勝2敗で連覇、後者も12勝3敗と食い下がった。横綱の12勝は最低限の務めだろう。もはや降格は許されず、負けが込めば辞めるしかない。白い綱の冷感がしみる、非情な地位である。
注:突貫――全力をあげて一気に事を進めること。
クンロク――大相撲で九勝六敗の成續(大関や横綱の成績としてはもの足りないという意でいう)。
腐す――悪意をもって他を悪く言う。
取り口――相撲で相手と取り組む方法。
綱渡り――はらはらするような危険な行動のたとえ。
土俵際――土俵場の、たわらを連ねた内と外との境界。
ドタバタ――慌て騒ぐさま。
食い下がる――食いついたり、しがみついたりして離れない。
込む――そのままじっと同じ状態でいる。