[二]
日本人と遊びというテーマを取り上げたからには、祭りにふれないわけにはいかない。
祭りは「日本人の心のふるさと」といわれる。そこには、先祖と土地とが結ばれたムラの生活のなつかしい匂いがある。祭りは本来は農耕村落でのものだった。豊作の祈願、収穫への感謝など、祭りは地域性と季節性をもっていた。その意味では、祭りは何よりも農耕社会にこそふさわしいものであった。
( ア )、今では団地の祭りを含めて、祭りは都市にも確実によみがえっている。都市部では、形を変え、内容を変えながら、祭りはいっそう盛んになった。豪華な飾り付けが呼びものになり、非常に多くの観光者が集まる。
ここでの祭りは、村祭りと違って、演ずる者と見る者とに分かれる。見る者は観光客としての役割を受けもち、演ずる者はプロとしての演技をくり広げる。山車や神輿をかつぐものの中には、その地域の人でなくプロの人間もいる。
こうなると祭りは観光業となり、商品になる。ここでは人出と観光客の落とすおカネを強く期待する。祭りは祭典となり、催しという言葉に置きかえたほうがぴったりする。
商店街の季節ごとの大売出し、観光地の観光祭りなどでは、本来の祭りのもつ懐かしい匂いはまるでない。そして、大規模化の行きつくところは、万国博覧会であり、オリンピックである。
国や行政の側が、このような「現代の祭り」に力を入れるのには、それなりの意味がある。一つは、祭りによって住民の連帯を生むことで、地域や社会への関心を高めること。もう一つは、人々の不満解消だ。人々をお祭り気分にひき込み、熱狂の中で国や社会に対する不満のエネルギーを消耗させる。いつのまにか“ガス抜き”するのである。
こうして、新しい祭りがどんどんふえていく。ムラの祭りが活気を失い、衰える道をたどっているのに対して、都市部や近郊の新しい都市で、祭りが盛んになる。ここでは、演じものは規模が大きくて華やかなものだが、そのくせ底が浅い。
それでも、祭りに人々が集まるのは、都市の住民にとって、機械化された管理社会の単調さを打ち破る非日常性への参加であり、そのことで生活の圧迫感から逃れることができるからだ。
「祭りに似たチャンスは、若い世代の場合、週末ごとにおとずれる。暴走族と呼ばれる若者たちの行動や、原宿に集まる日曜ごとの竹の子族、ロックンロール(摇滚乐)族の集まりも、彼らにとっては毎週末の行事であり祭りである。また、季節ごとのスポーツも彼らにとって祭りとしての心理的な意味をもっている」と、最近の若者たちの祭り好きについて言っている学者もいる。
文中に「祭りにふれないわけにはいかない」とあるが、それはなぜか。
文中の( ア )に入れるものはどれか。
文中の「それなりの意味がある」とは、どういうことか。
文中に「底が浅い」とあるが、それはなぜか。
この文章の内容に合っているものはどれか。