41、大抵の人が、新しく知ったことについて、いい気になりすぎる。それにばかり目を注いているものですから、かえってほかのことが見えなくなる。峠の上で自分が新しく知ったことだけが、知るに値する大事なことだと思い込んで、それにまだ気づかぬ谷間の人々を軽蔑する。あるいは、憂国の志を起こして、その人たちに教えこもうとする。42、が、そういう自分には、もう谷間の石ころが見えなくなっていることを忘れているのです。同時に見いだしたばかりの新世界にのみ心を奪われて、未知の世界に背を向けている自分に気づかずにいるのです。
こうして、知識は人々に余裕を失わせます。いや、逆かもしれない。知識の重荷を背負う余裕のない人、それだけの余力のない人が、それを背負いこんだので、そういう結果になるのかもしれません。43、というのも、知識が重荷だという実感に欠けているからでしょう。もっと皮肉にいえば、それを重荷と感じるほど知識を十分に背負いこまずに、いいかげんですませているからでしょう。しかし、本人が実感しようとしまいと、知識は重荷であります。自分の体力以上にそれを背負い込んでよろめいでいれば、周囲を顧みる余裕のないのは当然です。それが無意識のうちに、人々の神経を傷つける。みんないらいらしていく。そうなればなるほど、自分の新しく知った知識にしがみつき、それを知らない人達に当り散らすということになる。そうしてますます余裕が失うのです。
家庭における親子の対立などというものも、大抵はその程度のことです。旧世代と新世代の対立というのも、そんなものです。が、新世代は、自分の新しく知った知識が、刻々に古くなりつつあるの気づかない。44、ですから、あるときがくると、また別の新しい知識を仕入れた新世代の出現に出会って、愕然とするのです。そのときになってはじめて、かれらは自分には荷の重すぎた知識であったことに気づき、あまりにもあっさりとそれを投げすててしまう。すなわち、自分を旧世代のなかに編入するのです。とにかく、知識のある人ほど、いらいらしているという実情は、困ったものです。もっと余裕がほしいと思います。知識は余裕をともなわねば、教養のうちにとりいれられません。45、対人関係において、自分の位置を発見し、そうすることによって、自分を主張するのと同様に、知識に対しても、自分の位置を発見し、そうすることによって、知識を、そして自分を自由に操らなければなりません。そうでなければ、荷物の知識に、逆に操られてしまうでしょう。知識に対して自分の位置を定めるというのは、その知識と自分との距離を測定することです。この一定の距離を隔てるというのが、とりもなおさず、余裕をつくることであり、力を抜くことであります。くりかえし申しますが、それは教養というものなのです。
大多数人,对于新了解的事情,都会有些得意忘形。因为过于注目于此,反而对其他东西视而不见了。自认为站在知识的制高点,只有新了解到的,才有知道的必要,才最重要,此外还会轻视那些还未注意到这一点的位于谷底的人们。
但是已经忘记了这样的自己,已经看不到谷底的碎石了。同时心智也被刚刚发现的新世界占据,没有发现自己已经无视了未知的世界。
或许这也是因为没有切身体会到知识的负重感。说的再讽刺一些,就是因为他们没有背负过足够的知识,感受不到知识的重量,只是敷衍地学个皮毛吧。
所以,等到了某时,充满了其他新知识的时代到来的话,就会愕然。只有当这个时候,他们才会注意到知识对于自己过于沉重,非常轻易地抛弃了这些知识。也就意味着,自己已经被编入了旧时代的队伍之中了。
在人际关系中,必须找准自身的位置,来达到与自己主张的一致。对待 ,也要找准自己的位置,来自由操纵知识,操纵自己。不然的话,相反就会被知识的重量操纵了吧。