[二]
かりに脳死患者の臓器が、それがなければ死を免れない何人かの患者の生命を救うと考えよう。とするならば、本人の意思のいかんにかかわらず、臓器移植が許されるのであろうか。それが許されるとする考え方は、権利概念からは絶対に出てこない。
( ア )、一つの生命より二つの生命、二つの生命より三つの生命のほうが、量的に勝ることはいうまでもない。しかし、そのことは一人の生命より、三人の生命のほうが尊いということを意味しない。なぜなら一つ一つの生命は人格の尊厳の基盤だからであり、人格は比較を拒むところにその本質があるからである。人間から人格を排除するときにのみ、人間同士の比較や足し算、引き算が可能になるのである。
人格が比較を拒むのは、それぞれの人格がかけがえのない(不可替代的)存在だからである。かけがえのない存在であるからこそその生命はぎりぎりのところまで尊重されねばならないのである。そのことは脳死状態の人間でもまったく同じである。かりにかすかな可能性があるならば、そのわずかな可能性にかけるのが、人権の立場なのである。
それでは、臓器の不全で死を間近にした患者の立場は、どう考えたらよいのであろうか。もちろん、彼或いは彼女の命の重さに、差がないことはいうまでもない。( イ )、臓器提供を受ける患者は、臓器移植を権利として主張できるわけではない。それはあくまで脳死者の人権を最大限配慮した後に、はじめて可能となるテーマなのである。
両者の立場の違いをあいまいにしておくことは、臓器のみならず、人体全体の商品化へ道を開くことになる点で、非常に危険と言わねばならない。人間の命のかけがえのなさが、まさに臓器移植のような医療現場でするどく問題となっている。
一般に言って、権利感覚は効率本位の考え方とは相容れないものである。効率を大事にする者は、存在するものは最大限に利用したいと考えるであろうし、将来性のあまりない存在に、費用を注ぎ込もうとはしないであろう。限られた資源を最大限有効に利用するのが、効率本位の考え方であり、またそれが最大の利益を保障するわけである。
しかし、権利を大切に考える者は、たとえ無駄であってもかけがえのない存在を最後まで守ろうとするであろう。わたし自身十数年前に母を癌でなくした経験があるが、その時に脳死状態の母に高額の治療費がかかったことがあった。それでも温もりのある母の身体が病床にある限り、東京の病院に何度となく足を運び看病をしたことがあった。第三者からみれば、無駄な出費とみえるかもしれないが、それが当時のわたしにとって最大の仕事であり、生きがいでもあった。権利感覚は最終的には、かけがえのない個別としての人間、それがどれほど効率が悪く、手のかかる存在であろうとも、そのような存在に対する深い思いに根ざすものなのである。
文中の( ア )に入れるものはどれか。
文中の( イ )に入れるものはどれか。
文中の「それ」が指すものはどれか。
文中に「権利を大切に考える者は、たとえ無駄であってもかけがえのない存在を最後まで守ろうとする」とあるが、その意味はどれか
筆者の考えに合っているものはどれか。