大学教育の無機能化はますます深刻に、学生の間には大学への無関心と学習意欲の低下が、教授たちの間には危機感と無力感が、異様なまでに広がっている。私は、学部教育を日本で受け、フランスでの大学教育を経験した後、アメリカの大学で博士課程を修了した。そして今、日本の大学で教鞭を執るが、日本の大学教育がいかに形骸化しているかを痛感した。
41、この閉塞状況から脱出するために、私は「教育実践」の根本的変革を提案したい。教育の制度改革だけでは教育の再生は到底望めないと考えるからだ。「教育実践」改革の根本は、「大学は考える力を養成する場である」という極当たり前の原則に立ち戻ることである。
「考える教育」は、学生が積極的に参加する教育である。それは、講義中心の授業から、学生中心の学習活動への移行である。教授が「知」の伝達者として一方的に講義し、学生は単に教室に座りノートを取って終わりというやり方は、学制を受動的にし、若い才能の想像力の芽を摘み取り、エネルギーと溌剌さを奪ってしまう。42、大学は、「既存の知識」の伝達ではなく、既存の「知」を分析し、建設的に批判し、そして新しい「知」の創造活動が展開される場、あるいは「知」の創造のプロセスに参加する能力を養う場であるべきなのである。
このような教育の可能性は「読む」「書く」「ディスカッション」を中心にした教育によって初めて開かれる。「読む」「書く」ことは、講義を超えて、新しい考えに触れ、それを分析し思考するプロセスである。「ディスカッション」は自分の意見の表明であり同時に他人の意見の尊重である。43、学生一人一人が「知」の創造のプロセスに加わることを通して受動性、無気力を脱し、自己を取り巻く世界との積極的なかかわり合いの中で自己の存在感、自己への自信を獲得するとともに、他者への配慮と責任を学ぶことが可能となるだろう。
「知」の創造のプロセスに参加する教育にとって、教室は、そこに参加する教授と学生が作る知的刺激に満ちた共同体でなければならない。44、授業をより有意義なものにする努力は、教授と学生両者の共同の参与にかかっている。参与とは、地域社会であれ社会的運動であれ大学であれ授業であれ、自分の属する共同体や人間関係に重要な意義を認め、そこに責任あるメンバーとして参加することを言う。
学生の主体的、積極的参加による考える教育の実践を通して、教育は学生にとって疎外的でなくなる、今の日本では、伝統的価値の崩壊と「道徳」教育へのアレルギーの中で、新しい社会的価値はまだ形成されていない。45、このような価値不在のもとでは、一人一人が自己と他者、共同体との関係を考えながら自らの行動を選択していく能力を養成する教育こそが必要である。従って「考える教育」は、大学だけでなく、小学校からの基本的教育活動としても取り入れられるべきであると思う。
为了从这种闭塞的状态中逃离出来,我想提议从根本上进行教育实践的改革。这是因为我认为仅靠教育制度改革的话,无论如何都难以期待教育的重生。教育实践改革的根本,就在于回归到“大学是养成学生思考能力的地方”这一即为理所应当的原则上来。
大学并不是传达“已有知识”的地方,而是对已有的“知识”进行分析,进行建设性的批判,继而开展新“知识”的创造活动,或者培养学生们参加“知识”创造过程的能力的地方。
每名学生通过参与到“知识”的创造过程,摆脱被动性和无干劲,在与这个包围着自己的世界的积极的交流中,获得自身的存在感和对自己的自信,与此同时,学习对他人的关心与责任也成为可能。
把讲课变得更有意义的努力,就是让教授和学生两方共同参与。这里所谓是“参加”,指的是无论在地区社会还是在社会活动,无论在大学还是在课上,认识自己所属的团体和人际关系的重要意义,并作为有责任的一员的“参加”。
在这种“价值不在”的下面,让每个人都能养成一边思考自己与他人,自己与团体的关系,一边选择自身行动的能力的教育,才是有必要的。因此,我想“思考的教育”不仅在大学,也应作为小学开始的基本教育活动导入到现有教育中。