[四]
人間には、身体的なエネルギーだけではなく、心のエネルギーというものもある。同じ椅子に一時間坐っているにしても、一人でぼーと座っているのと、客の前で坐っているのとでは疲れ方がまったく違う。身体的には同じことをしていても「心」を使っていると、それだけ心のエネルギーを使用しているので疲れるのだ、と思われる。
このようなことは誰でもある程度知っている。そこで、人間はエネルギーの節約に努めることになる。仕事など必要なことに使うのは仕方ないとして、不必要なことに、心のエネルギーを使わないようにする、となってくると、人間が何となく無愛想になってきて、生き方に潤いがなくなってくる。他人に会う度に、にこにこしていたり、相手のことに気を使ったりするとエネルギーの浪費になるというわけである。ときに、役所の窓口などに、このような省エネルギーの見本のような人を見かけることがある。まったく無愛想に、面倒くさそうに応対をしているのである。そのくせ、疲れた顔をしたりしているところが、面白いところである。
これとは逆に、エネルギーが有り余っているような人もいる。仕事に熱心なだけではなく、趣味においても大いに活躍している。他人に会うときも、いつも元気そうだし、いろいろと心づかい(费心、劳神)をしてくれる。それでいて、それほど疲れているようではない。むしろ、人よりは元気そうである。
このような人たちを見ていると、人間には生まれつき、心のエネルギーをたくさんもっている人と、少ない人とがあるのかな、と思わされる。いろいろな能力において、人間に差があるように、心のエネルギー量というのにも生まれつきの差があるのだろうか。これは大問題なので、今回は取りあえず自分自身のことを考えてみよう。たとえば、自分は碁が好きだとしよう。その碁を打つために使用される心のエネルギーを節約して、もう少し仕事のほうに向けようとして、碁を打つ回数を減らしたとしたら、果たしてどうなるであろうか。あるいは、今まで運動などまったくしなかったのに、ふと友人に誘われてテニスをはじめると、それがなかなか面白い。だんだんと熱心にテニスの練習に打ち込むようになる。そんなときに、仕事のほうは以前より能率が悪くなっているだろうか。案外、以前と変わらないことが多い。テニスの練習のために、以前よりも朝一時間早く起きているのに、仕事をさぼるどころか、むしろ、仕事に対しても意欲的になっている、というときもあるだろう。
もちろん、ものごとには限度ということがあるから、趣味に力を入れれば入れるほど、仕事もよくできる、などと簡単には言えないが、ともかく、エネルギーの消耗を片方で押さえると、片方で多くなる、というような単純計算が成立しないことは了解されるであろう。片方でエネルギーを費やすことが、かえって他の方に用いられるエネルギーの量も増加させる、というようなことさえある。
以上のことは、人間は「もの」でもないし「機械」でもない。生き物である、という事実によっている。
文中に「一人で…疲れ方がまったく違う」とあるが、その理由としてもっとも適切なものはどれか。
文中に「面白い」とあるが、何がおもしろいのか。
文中「テニスの練習のために…ときもある」の意味として適切なものはどれか。
エネルギーについて筆者の考えに合っているものはどれか。
この文章の主旨はどれか。