「読む」ということについてなど、だれもあまり考えてみることはしない。しかし、「読む」こと(1)真正面から取りあげて考えてみると、本当はなかなか難しいのである。
かつて、ある生徒の答案があまりにも素晴らしく、(思う存分)大きく「グッド」と書いて、賞賛の言葉を書き連ねたことがある。問題文は難解、設問もその文章の思想の根っこを把握するもので、こんな問題のできる生徒がいるといいな、そう考えながら作った問題であった。ほとんどの生徒が見当もつかずにピントの外れた解答をしている中で、その答案は、的確に読み取り、確かな論理で思索し、そして完璧な内容を緊密な文体で表現していた。「グッド」は、そんな答案に(2)感嘆の叫びだったのである。
それから五年後、大学院生になっている彼と会う機会があったが、驚くべき(4)、彼はそのときのことを鮮明に覚えていて、次のような話をしてくれた。
僕はサッカーのエースストライカー(主力队员)でした。中学でも、高校でも、僕がいなければチームは勝てないと内心思っていました。ある時など、ディフェンダー(守门员)から「おまえはいいなあ、足でボールを蹴っているだけで威張っていられるんだから。おれなんか体で阻止しているのに、ちっとも認めてもらえねえや。」と嫌味を言われたこともありましたが、僕が(5)なのは当然のことだと思っていました。ところがある大きな大会への出場権をかけた試合に、監督が僕を後ろに下げたんです。僕はその理由を考えるより先に、(6)こんな大事な試合に僕を下がらせるのかと、憤然としたままゲームをやりました。ゲーム(7)勝ちました。先生は、僕を下げたこと(8)何も言いませんでした。僕の心には、憤りと不満とだれにとも知れない敵意が(9)ありました。ところがある時、突然、僕は一体チームの中でどういう存在だったのだろうかという思いが沸い(10)のです。僕は一体どういう奴なんだ、僕はどんなふうに皆に思われているのだろう、僕とは一体なんだ。そんなふうに思い悩んでいた時、先生のテストで「グッド」と書い(11)のです。
この話を聞きながら、コトンと胸に落ちた(12)があった。それは、物が「見える」ためには、逆説的ではあるが、自分がないこと、己の「我」がないこと、かっこ良く言えば、自分が一個のvain(空虚)であることが必要ではないかということである。彼の場合も、自分を高しとする思い上がりを捨てて誠実に自分と向き合う気持ちになっていたからこそ、問題の文章がよく読めたのではないか。おそらく、このときの彼の心は、柔らかく伸びやかな何もない広がりであったはずだ。
(1)~(12)に入るもっとも適切なものはどれか。
文中の「考えながら」の「ながら」と同じ使い方のものはどれか。
文中の「大学院生になっている」の「ている」と同じ使い方のものはどれか。
文中の「威張っていられる」の「(ら)れる」と同じ使い方のものはどれか。
文中の「チームの中で」の「で」と同じ使い方のものはどれか。
文中の「『見える』ため」の「ため」と同じ使い方のものはどれか。
文中の「ということ」と同じ使い方のものはどれか。
文中の「把握」の読み方はどれか。
文中の「蹴って」の「蹴」の読み方はどれか。