[四]
その日、私の乗ったJR線車内は立つ人もなく、いかにものんびりとしていた。
ドアにもっとも近い席で、私は西日を背に受けてあくびを我慢しながらうとうと…。と、そんな平和を破ったのは、今、乗って来た初老の男の罵声であった。興奮した大きな声が響き渡り、車内は一気に緊張した空気に包まれた。おでこ(额头)に大きな絆創膏を貼ったその男。こともあろうに私の脇に立ったのである。酒の匂い付き、罵声が頭の上にふりかかってくる。——車両を移ろうか。次で降りようか。——逃げ道を探しながらもチラッと盗み見ると、つり上がった目は、私でなく、宙を睨んでいた。
聞き耳を立てると、どうも交通事故に遭って、相手の不誠実な対応に憤慨しているらしい。八つ当たり(出气、撒气)されそうな恐怖感で、ひと駅の長いこと。ようやく、駅に到着。
男は降りない。足がすくんでしまった私もそのままで、電車は走り出した。ドアロに子どもの声がした。ランドセルより小さく見える小学生たちだった。相変わらずわめいていた男をジッと見上げて、逃げようともしない子どもたち。やがて、「おじちゃん、おでこ、どうしたの?」と一人の子どもが声をかけた。…どうなることか、いざとなったら何とかしなくちゃ…私は息を飲む。
ところが、けわしい顔つきをしていた男は、意に反して、たちまち表情をくずし、「車にね、ひっかけられて、きっちゃった」と、目尻を下げたのである。
「痛かった?」
「死ぬかと思った」
「まだ、痛いの?」不安げな表情の子どもたちに、私はジーンときてしまった。なんて純真で優しいんだろう…。
「もう大丈夫…」答えた男は、しばし無言の後、感極まった声で「ありがとね、ありがとね」と、何度も繰り返したのである。その喜びに満ちた顔は、シワクチャであった。
「電車通いか。事故に気をつけないと……おじさんみたいになっちゃうからね」
「うん」
いちいち素直にうなずいていた子どもたちは、次の駅で降りて行った。ドアにへばりついて見送る男は「ありがとね」を言い続けていた。その後、罵声はやみ、そこにちょっと寂しげな、ただのおじさんの姿があった。
家や職場に男のグチを聞く人がいなかったのかもしれない。つかの間でも子どもの優しい言葉に、男は随分と救われたことだろう。
私も、乗客らも大いに救われたのである。車内には再び平和が訪れた。
他人で、ましてや醜態を見せた男だから、私には,とうてい、声をかけるなんてできなかっただろう。しかし、身近な人にも私は、今まで思いやりのある言葉をかけなかったのではないだろうか——心をこめた会話を忘れてはいなかったか――反省材料がいっぱいだ。
以来、この貴重なふれあい場面を思い起こしては、会話の大切さを肝に銘じる私である。
文中の「そんな平和」とはどういうことか。
文中の「私はジーンときてしまった」とはどんな気持ちを現しているか。
文中の「ただのおじさん」とは、どんなおじさんか。
文中に「男は随分と救われたことだろう」とあるが、それはなぜか。
文中に「私も、乗客らも大いに救われたのである」とあるが、それはどういうことか。