[三]
わたしがA国から帰国してまもなく見た新聞に、「もう泣き寝入り(忍气吞声)すまい」という投書が載っていた。交通事故で、自分が悪くないのに謝ったりしては大損(吃大亏)だという体験談である。A国の人があれを読んだら、そのあまりにも日本的な現象に驚きあきれるだろう。
民族が違うと、ものの考え方もこのように違う。それは日本とA国と「とちらが良い(あるいは悪い)」ということではなく、「違う」という事実が重要なのである。
普通わたしたちは自分のことを「日本人」と規定している。しかし日本人としてのわたしたちとは、具体的にはどういう民族なのだろうか。どこの国に限らず、自分たちの民族的性格や特徴は案外知らないものだ。何かを知るということは、その「何か」を「他」から識別し、取り出すことでもある。まず「他」を知らなければ「何か」を識別することはできない。わたしたち自身を知るためには他民族を知ることがその第一歩なのだ。地球上のさまざまな民族と接してみると、わたしたちがあたりまえと思っていることが他民族には全く通用しない例がよくある。そうした事実を知って初めて、わたしたちは自らを客観化し、知ることができるようになる。
簡単な例を挙げよう。わたしたちがコメと言うとき、それは煮る前のコメツブのことであって、食べるときのメシ(ゴハン)のことではない。しかし英語ではとちらもrice(ライス)である。
もう少し複雑な例を挙げよう。魚のブリは、日本語だとその成長段階に応じてシオワカナ、ツバス、ワカナ、ハマチ、メジロ、モンダイ、ブリ(明石地方の場合)とよび分ける。しかし英語ではすべてyellowtail(イエローティル)だ。
もっと複雑な例として、ベドウィン(砂漠を遊牧しているアラブ人を指す)によるラクダのよび方がある。日本語では「ラクダ」の一語だが、アラビア語ではその各成長段階はもちろん、「乗用」や「荷運び」のような用途別、さらに「妊娠したラクダ」「草を食っているラクダ」など、実に200とおり近くもの単語に細分されている。エスキモー(爱斯基摩人)の場合は雪がそれに当たるだろう。「激しく吹き付ける雪」「吹きだまりの雪」「地面を広く覆う雪」「飲料水用に溶かすための雪」といったさまざまな状態・用途に応じて大変細かく命名されている。
なぜこのような違いができるのだろうか。それは例えばエスキモーにとっての雪の場合、日本人にとっての雪とは比べものにならぬほど生活と密接に結びついているからである。エスキモーが生きてゆくためには、北極地方の風土を支配する雪への深い関心がなければならず、関心が深ければ深いほどその対象を表す言葉も豊富になる。
文中「日本的な現象」とはどういうことか。
文中「どこの国に限らず、……案外知らないものだ」とはどういう意味か。
文中の「それ」とは何を指すか。
この文章の内容に合わないものはどれか。
この文章に題目をつけるとしたら、もっともふさわしいものはどれか。