[二]
魚類には流れに逆らって泳ぐ習性があるようであるが、ことにコイの激しい水の勢 いに向かって進む習性は著しい。古来、コイの滝のぼりとして賛美されるのは、それ 自体の勇ましさのほかに、人間の側にも同じような心理的傾向がどこか内在している ために、一種の心理的共鳴を起こして、特に感銘するのかもしれない。
人間に限ららず、そしてコイに限らず、なるべく抵抗の少ないところを選んで生き ていこうとするの生物として自然の本能と考えられるのに、明らかにそれと矛盾する ようなこういう習性が見られるの面白い。生きるという以上、完全に環境に順応しき ってしまうことはあり得ず、必ずある程度は、それに逆らい、摩擦のあることを前提 とするはずだとも考えられるのである。行動、活動、生きること自体が、作用と反作 用を離れてはあり得ない。生きるものが独立した存在であろうとする限り、必ずある 程度は環境と対立の関係にあると見るべきで、もし、まったく環境に抵抗しなくなっ たら、それはすでに生きることの停止を意味する。
人間も絶えず環境との間に生ずる緊張を意識している。しばしばそれがもっとも具 体的な生の意識になる。物理的な生きがいは、ほかのものに逆らった時に生ずる摩擦 によって保証されるといってよい。なるべく余分なエネルギーは消費しないようにし ようとする本能がある一方で、無為をきらい、積極的な活動をすることに喜びを覚え る別の本能があって、両者が対抗している。しかし、われわれの生活のすべての面に おいて、努力ということが尊重されるのは、すなわち環境順応の無為よりも、四囲の 自然に逆らっていくことの中に、真の人間らしさがあることを公認しているものにほ かならない。
このことは、行動の次元にとどまらないで、当然、心理的な問題にも及ぶであろう。 何もしないでじっとしていることが身体的にもっとも楽であるように、外界の事象、 表現をそのまま無抵抗に受け入れ、これに反発したり、批判を加えたりしなければ、 精神はもっとも自然な状態で平安を維持できるはずである。もし、われわれが、こう いうことのみを好むようであれば、人間はみな環境の奴隸になってしまうであろう。 自然の支配はおろか、人間としての自主性さえ弱める。(ア)、幸いなことで、 そういう無抵抗の受容が十分に満足できないようにできている。むしろ与えられたも のに逆らうときの抗性に快感を覚える習性があるのである。