41.人間が知り、人間が作るもののすべてを包んで、それを「文明」とか「文化」とか呼ぶことが、かつては疑いなく可能であった。ゲーテ(歌德)のような天才は、自然科学から文学や哲学の世界まで、ひとりで見渡し、それを同一の言葉で語ることができた。しかし、どんな天才でも、この二十世紀の後半に、人間をそのような大きな全体像の中で考えることは難しい。一方、それにもかかわらず、現代人はやはり毎日の生活というものに生きている。そして、いうまでもなく、どんな人にも日常生活を専門化して生きることは許されない。42.どんな詩人も飯を食わねばならず、どんな天文学者も小説を読む隣人と付き合わなければならない。「文明」の全体像がどれほど掴みにくくなっても、われわれは文明人として最小限度の常識を欠いてはいきられない。じんせいとはどういうものかということが、体系的ではなくても、ある程度まとまった形で把握されていなければならないのである。
ある意味で現代人はこの文明の常識を、むしろいかなる時代の人間よりもせっかちに求めている。43.人々は、争って専門知識の啓蒙書を読み、争って平均的な高等教育を受けようと焦っている。自然科学者が芸術に無知であったり、小説家が社会的に非常識であったりすることが、今日では昔よりもかえって強く責められるようになった。なかでも、政治的イデオロギーについて、現代人は共通した常識を持つことがほとんど義務のように考えられている。
44.皮肉な話だが、「知識」が「専門化」すればするほど、同時に人間は急速に平均化しつつあるといえる。人間が細分化され、人間性が失われていくのと、平行して、他方ではそれを回復すると称して、空疎(空洞)な政治スローガンがわれわれを偽りの常識に誘惑する。
45.だが、文明の常識というものは、本来人間にとって、一つの暗黙(沉默)の了解のようなものではなかっただろうか。自然の感じ方、起居動作の作法、基本的なモラルの感情など、いずれも言葉に出して教えられるものが文明の根底にある。それはあらゆる専門知識の前にあり、それどころか、人間が常識的に行うすべての行為の以前にある。人間を本当に根底から支配するものは、結局は知識に過ぎないものの足し算ではなかったはずである。
囊括人类了解、创造的一切,并称之为“文明”或者“文化”,这在以前无疑是可能的。像歌德这样的天才,从自然科学到文化、哲学世界,能一眼洞穿,并能用同一种语言进行阐述。
无论是什么样的诗人都得吃饭,无论什么样的天文学家,都必须要和读小说的邻居交往,捕捉“文明”的全貌,无论变得多么困难,如果我们缺少了作为文明人最小限度的常识,都不能生存下去。
人们争着读专业知识的启蒙书,迫不及待地要接受均衡的高等教育。自然科学者对艺术丝毫不懂,小说家对社会认识偏差之类的事情,在今天反而会比过去遭到更强烈的批判。
虽然很讽刺,“知识”越是“专业化”,可以说与此同时,人就更急速的“平均化”,人逐渐被细分化,失去人性,与此同时,空洞的政治口号宣称着“在其他地方恢复它”,从而把我们诱导向虚伪的常识。
但是,所谓文明的常识,对于人类来说,本来就是一种不言自明的东西吧。感知自然的方法,日常起居的礼仪,基本道德的情感等等,全部这些能够用语言传承的东西,就是文明的基础。