[三]
何の違いもない二つの教室。同じように前を向いて並んだ子供たちが思い思いに自 習している。部屋の大きさや形、席の数や配列、どこをとっても何ら変わりはない。 ただ一つの違いは、第一の教室では監督が前から睨みをきかせているのに、第二の教 室では後ろにいる、いや、いるらしいとしか分からないという点にある。たったこれ だけの違いが生徒たちの行動様式に根本的差異を生じさせると言えば、大げさに響くだろうか。
遊びたい盛りの子供たちにとって、第一の教室は厳しい環境のように見える。気ま まに席を立って遊ぼうにも、ちょっと顔を上げれば監督と視線を合わせることになる のだから。しかし、そんな環境でも、慣れてくればそれなりの抜け道を見つけること ができる。机の上に立てた本の陰でイタズラ書きをしたり、隣の子とおしゃべりした り、監督がちょっと目を離した隙にかなり派手なイタズラをすることだってできる。
監督の目が届きにくい教室の周縁部ともなると、要領のいい悪童達がけっこうよろ しくやっているようだ。休み時間になって監督が席を外すと、そんな連中の内、とり わけいたずらな子が監督席に座って面白おかしく監督のまねをしてみせるだろう。そ れを見て笑い転げる子供たちの顔に生き生きした遊戯の歓びを見てとるには、ほんの 一瞥で十分である。
第二の教室ではどうだろうか。一見したところ、ここは第一の教室よりも随分自由 な感じがする。事実、少々サボって手遊びをしたりしていても、後ろから叱声がとん でくる気配はない。どうやら、ちょっとした遊戯は黙認されているらしいのだ。だん だんいい気になり、派手なイタズラを考えるうち、しかし、子供たちはなんとなく背 後が気になり始める。
もしかしたら、僕は後ろから目をつけられているんじゃないだろうか。それを確か めようにも、振り向くことだけは決してできないようになっているのだ。
したがって、監督が一体今そこにいるかさえはっきり分からないのだが、その不在 の視線はやがて確実に子供たちのうちに内面化されていき、一人一人が自分自身の監 督の役割を引き受けることになるだろう。徹底した相対評価システムがそれに輪をか けるよう作用して、教室を絶えざる自主的相互競争の場に変えていく。
事態をいっそう救いのないものにするのは、この場が空間的にも時間的にも均質に 広がっているというこうだ。実際、第一の教室と違って、この教室には周縁部がない。 監督線の位置が確定されないということは、それがあらゆる位置に偏在しているのと 同じことである。また、決まった休み時間があるわけでもない。ふだんから、放任し て自由にやらせているのだから、取り立てて休み時間など作る必要はないというわけ だ。ここでは、子供たちは、遊戯の自由を与えられているにもかかわらず、いや、ま さにそうであるがゆえに、その自由を思うままに行使できないという仕組みになっているのである。