[一]
日本には現在、朝日、毎日、読売という三大組がある。これに、日経、産経を加えて五大組と称することもあるらしい。
新聞というものを、わたしはすでに数十年前からほとんど読まないことにしている。それをひそかな誇りにしている。
なぜ読まないか、話は簡単である。読み比べて、何の区別もないからだ。久しく前から、新聞を作る人たちが自分は言葉のプロであり、文章を書くことによってメシを食う職業人であるという意識を、徹底的に喪失してしまった。売文業者であることを忘れて果てた。事件が起こり、その事件を二足す二は四
という文体で報道するだけならば、それはジャーナリズムとは言えない。ジャーナリズムとは、文章である。もちろん、事実は伝えなければならない。が、その事実を伝えるにも無限の方法があり、発想があることを、みな忘れてしまった。二足す二は四という文章ばかりである。
( ア )、どれを見ても区別のつかない新聞に、区別をつけるのはコラム(专栏)である。いい日本語、面白い文章、楽しい文章、読んでも啓発される文章
そういうもので書かれたコラムがあるかないかが、新聞の生命を決定するとわたしは考える。
大正末期から昭和にかけて、かなり長い間毎日新聞は薄田泣董の「茶話」というコラムを載せていた。当時の毎日新聞はたった一つ、この「茶話」のコラムだけで売れていたんだ。座布団サイズの新聞が、ハガキ大のスぺースのコラムで売れていたのである。が、それは当然のことだったろう。その頃、まだ新聞はその文章によって読まれるという、本来の機能と美徳が生きていた。新聞を作る人の意識の中に文章を売るという意識があったのだと思われる。
これに対抗するため朝日新聞が持ち出してきたのが、杉村楚人冠のコラムである。どちらかというと、わたしは薄田泣董の文章のほうが好きである。いま読み返してみても、なお読むにたえるユーモア、柔らかさ、清新さ、色々なものを含んでいる。こういうコラムというものが、もうなくなってしまった。あのコラムがあるために新聞を読もうという喜びが、ことごとく死に絶えてしまった。もちろん、外部の偉いセンセイたちに頼んでコラムを書いてもらう欄はいくらでもあるし、どの新聞にもある、が、その内容自体が凡庸、陳腐、お粗末······ことごとくこれで、全然面白くない。にもかかわらず、止められないでいる。だれも読まないのに止まられないという点では、死亡広告の記事に似ている。
ニュースそのものは、現代、即刻テレビで報道されてしまう。そして、ロコミというコミュニケーション機関もある。従って、新聞の権利回復はいまこそコラムにかかっているのである。読みたくなるようなコラム、これが新聞なんだ。
文中に「新聞というものを、······している」とあるが、それはなぜか。
文中の( ア )に入れるものはどれか。
文中の「それ」は何を指すか。
文中の「新聞の権利回復は······かかっているのである」とあるが、それはなぜか。
この文章の内容に合っているものはどれか。