[三]
戦後がらりと変わった日本の祝日は、外国のそれと比べて、かなりユニークなものといえるかもしれない。「体育の日」「敬老の日」といった、宗教色や歴史的うらづけが全くなく、なんで国旗を掲げるのかもよく分らぬ日が数多いのである。これを、結局は、休日のボーナスと思えばいいという人も少なくない。しかしそれではあまりにもいい加減であろう。国民の休日は、その日のテーマとなった問題についてだれもが、ひとときの思索を試みる日を受け取りたい。
11月3日は「文化の日」。年配の人なら文化という言葉に、カビくさい大学の研究室を連想するかもしれない。若い人のあるものは、テレビ・スタジオやファッションショーなどを、思い浮かべることだろう。いずれにしても、文化とはどこかでだれかの手によってつくり出され、われわれはただそれを受け入れるだけ、という考え方が一般といえそうだ。文化とは無縁の衆生、文化人などというのは自分とは別の世界の人種、と思い込んでいる人が少なくない。だが、果たしてそうだろうか。
むずかしい定義をぬきにして考えれば、文化とは要するに野蛮の反対。なにごとにも力が優先する、弱肉強食の世界の対極に立つのが、文化的社会といえよう。( ア )、文化国家とは、国の内外に、力による征服被征服の関係をつくらぬ国であり、その当然の帰結として平和を志向し、あらゆる戦争に断固反対せざるをえない。
核兵器に対するに、文化国家という理想をもっている——力による抗争が世界の破滅を意味するものである以上、この立場は疑いもなく正しい。だが、この立場からの発言が国際的な説得力をもつためには、まず日本がどの国からもなるほど、立派な文化国家だと認められねばなるまい。自分の国でさえ実現できぬ理想を外に向かって説いたところで、ただ白昼夢と冷笑されかねないからだ。
となると、老人をけとばして電車に乗りこむ若者、連日数十人を殺して走る車——そんな光景が、この日本にあってはならぬ道理となる。我々日本人はだれもが、力ずくの野蛮人でないという意味では、文化人にならなくてはならない。そして、それが日本の生きる道につながっている、ともいえるのである。
文中の「休日のボーナスと思えばいい」とは、どんな気持ちを現しているか。
文中の「年配の人なら…連想するかもしれない」とはどういうことか。
文中に「思い込んでいる人」とあるが、それはどんな人か。
文中の( ア )に入れるものはどれか。
この文章の内容に合わないものはどれか。