[三]
開業医をしていた私の父が、診断書を書く時の心得について、「向こう二週間の安静加療を要する」というふうに書かないで、かならず、「向かう二週間の安静加療を要するものと認められる」と書くように、繰り返し言っていた。
文末に「られる」をつけるべきである、というのである。もし診断書が法廷に持ち出された場合、「られる」のあるなしは医師の立場に微妙な差違をもたらす。要するに断定的な表現が用いてあれば、医師の診断とくに何日間治療しなければならないかという点が、絶対に動かしがたいものとして受け取られる恐れがある。そのためその医師が後に引けない場面に追い込まれることもあり得る。それに対して「認められる」を加えておけば、一週間と書いたものが四日で治癒しても、一ヶ月かかってもそれほど治療日数の多少に( ア )。言いかえると、「要する」という表現は科学的な客観的な判断を示すのに対して、「要する」と「認められる」ほうは判断の本人である主観的な「私にとってはそう感じられる」、したがって「他の人は別な判断をするかも知れないし、私の判断が絶対的な動かしがたいものであるとは限らない」という含みを持つから、万一の時に変な責任を負わなければならない心配がない、と大体こういう理由であったらしい。
何でも、これは父自身の意見ではなく、その恩師から受けた教えであると聞いた。法廷でこのような表現の差が実際に問題になったという例を私は聞いたことがない。したがって、医師の診断書にも世人は寛大であって、それほど厳しく誤差を追究しないのが常である。まして、「られる」のあるなしによって医師の立場が微妙に変化するとは想像できない。「られる」は私の父が信じていたほどには効能を持っていなかったのではなかろうか。
( イ )、文末に「られる」を使うか使わないかによって文意に微妙な違いが出てくることを、はっきりと意識し、その使い分けを実行するという習慣がかつてあったことは、とにかく興味のあることである。個人差はあるが現在でも日本人の判断の様式に、「られる」の有無が意識下では常に吟味され、「である」と断定するか「であると思われる」とするかによって、話し手も聞き手も文意の強さ弱さの微妙な違いを計算している。あるいは、「られる」の表われ方によって話し手の人柄までが推測されていることもある。あってもなくてもよいというものではなく、「られる」は今でも退化しないで、その機能を果たしているのである。その点で、診断書の文法は、成長して言葉の問題に取り組むようになった私には忘れがたい思い出としてよみがえってくる。
文中の「微妙な差違」とはどういうことか。
文中の( ア )に入れるものはどれか。
筆者は父の診断書の言葉遣いについてどう考えているか。
文中の( イ )に入れるものはどれか。
診断書の「られる」の有無について、父の考えに合っているものはどれか。