[三]
常識を養うことは大事だといわれる。だが、どうしたら養われるのか。多くの人たちは、まず知識を身につけることだと思っているのではないだろうか。科学の知識や、経済学の知識や、さまざまな知識を身につけ、どんなことでもある程度わかるようになるのが、常識のあることだと思っているようである
しかし、どんなことにしても、ある程度わかるということは、大変なことである。そこで、ものごとを早わかりさせるような、簡単な解説書がたくさん作られ、それがまた、多くの人々に読まれるということになるのだろう。
もちろん、こういう本を読むことは、少しも悪いことではない。だが常識を養うという目的のために読むのだとしたら、それは大間違いであろう。こんな本を数多く読めば、さまざまなことについて、少しずつ知識はできるであろうが、それはそれだけのことであって、それによって常識が豊かになるとは言えない。常識は、知識ではなくて、判断する力なのである。
本を読むにしても、常識が知識だと思うと、そこに書かれた知識ばかりを読み取ろうとして、そこにある著者の大事な「ものの考えかた」を学ぶことをすっかり忘れてしまうことになろう。
常識とは、個人の判断ではあっても、それが一般的であるとか、社会に共通するとかいう性格を持たなければならないものである。別の言葉で言えば、常識とは、社会に通用する判断なのである。
社会に通用するとは、現状をすべて肯定するという意味ではない。現状とかけ離れた考え方であっても、それがどこかで現状につながり、明日に実現の可能を約束するものでなければなるまい。( ア )、社会に通用する考え方だということができよう。常識とは、そうした考え方なのである。
社会に通用するというからには、世間を知るということが、当然に必要であろう。自分の考え方なり判断なりを、世間の中に置いてみてそれが通用するものかどうか、反省することが、なにより必要だということになる。ということは、必ずしも世間並みに従えということではない。
こう考えてくると、常識を養うということも、そう簡単なものではないということに気がつく。しかし、本当は、そんなに難しいことではないのだ。純真な心をもった人たちのことを考えてみると、すぐわかることだろう。いわゆる学識もなければ、社会的にも目立つことのない人で、よく常識をわきまえている人があるものだ。このような人については、いろいろの美点をあげておくことができるが、ここではただ一つ大事な点をあげておくことにする。それは、自分の知らないことを、人に尋ねるということである。知らないことを、知らないこととして、これを人に聞くということは、簡単なことでありながら、難しいことなのだ。だが、それのできるということが、常識なのである。
文中の「それはそれだけのこと」の説明としてもっとも適切なものはどれか。
文中の「社会に通用する判断」を養うにはどうしたらよいか。
文中の( ア )に入れるのにもっとも適切なものはどれか。
筆者が言っている「常識」とは何か。
この文章の目的は何か。