[二]
人生の道でわたしどもが出会うわかれ道は、たくさんある。そして、多くはそれとも( ア )、右へ左へ無意識にそれを選んで進んでいる。そして、時々、何か不都合なことや失敗が起こったときに、自分の歩んできた道を逆にたどってみると、右へ行くべきところを左へ行っていたり、急ぐべきところでぐずぐずしていたりしたといった、不都合や失敗の原因が思い当たるものである。
すべての失敗の原因が、それに気づかなかった自分の内部にのみあると断定してしまうことはない。人間として予知できないことが原因となっていることも多い。そして、そのために、かえって幸せをつかみとることもある。( イ )、わたしどもは、自分についても、運がよかったとか、運が悪かったとか、そういう言葉を使って、自分の喜びをさらに大きなものにしたり、あるいは自分の苦しみやつらさを慰めたりする。
しかし、食べ物を食べ過ぎて腹をこわしたとなると、それを食べているときにわかれ道があったはずである。すこし控え目に食べておけばよかったものを、うまいうまいと、満腹してもなお詰め込んだのがよくなかった。
つまり、わたしどもの前にも後ろにも、わかれ道はたくさんあるけれども、その中で自分では予知できないものもあるし、また気をつけていれば、落ち着いて考えて、どっちの道をとればいいか、自分で選べるものもあるということである。自分で道を選ぶ力、これが大切である。
いま、もう40、50になっている大人の中には、道を間違えたと言って後悔をしている人が多い、ただあきらめ、自分の選んだ道は間違っていたけれど、今さら文句を言っても嘆いてもしかたがないと考えて、普通は黙っている。けれども、時々そのことを思い出して、他人を恨んでいる。これはつまらないことだと思う。
ところで、わかれ道のことで、もう一つ大切なことを付け加えておかなければならない。左へ行くほうがよいか、右へ進むほうが自分にはふさわしいか、それで迷ってどっちかへ決めたあと、また考えが変わって、やっぱり向こうのほうがよかったのではあるまいかと、いつまでもくよくよする人がある。これはいちばん愚かではないかと思う。そういう人は、いつまでもわかれ道の所でうろうろしていて、どっちへも進めない人である。
文中の( ア )に入れるものはどれか。
文中に「道を逆にたどってみる」とあるが、どんな時に道を逆にたどるか。
文中の( イ )に入れるものはどれか。
文中に「普通は黙っている」とあるが、それはなぜか。
筆者がこの文章でもっとも言いたいことは何か。