[三]
現在はどうだかわからないが、ロシアガソ連(苏联)だったころ、男の人も女の人も、一歩家を出る時は必ず、買い物袋を持っていたという。どうしてかというと、いつ、自分の欲しいものが売りに出されるかわからないからなのだそうだ。
そのソ連では、街を歩いていて行列ができていると、人は必ず、とにかくその行列の一番後ろに並ぶという。何のための行列だかわからなくても、まず並ぶのだそうだ。
その列は、りんごの売り出しのための列かもしれない。牛肉の列かもしれない。トイレットペーパーの列かもしれない。とにかく並んでみて、自分が欲しいものであったならば、例のいつも持ち歩いている買い物袋を引っ張り出して、その品物を買うというわけである。こういう時のために、ソ連の人はいつも買い物袋を持って歩いているのだ。
この買い物袋のことを、ロシア語では「アボシカ」という。そしてこのアボシカの本来の言葉の意味は「もしかしたら······」という意味なのだそうだ。
私はこの話を聞いた時、ふっと自分自身の日常生活を考えた。
もちろん、出掛けるごとに買い物袋を持って行く······などということはしていない。たとえ外で何かを急に買ったとしても、日本では、その品物は袋に入って渡されるから、その必要性もないのである。
確かに便利ではあるけれど、私たちは、こうした行き届いた暮らしの中で、少しずつ、何かを忘れてしまっているような気がする。
人は、今日( ア )を知らずに生きている。まるでソ連の人が家を出る時のように、私たちも一日を生きているのである。
もしかしたら、心が洗われるような音楽に出会うかもしれないし、人生を変えてしまうような本に出会うかもしれない。考え方を改めるような映画に出会うかもしれないし、心の支えとなるような人に出会うかもしれない。涙ぐむような光景に出会うかもしれないし、力強い言葉に出会うかもしれない。
どんなものにぶつかるか、私たちは何も知らずに生きているのである。
果たして私たちは、そんな大切なものに出会った時、それを自分のものにしてしまえるような買い物袋を持っているだろうか。
せっかくいいものに出会うことができても、それを自分の心の中に取り込まない限りは、ただの「いいもの」で終わってしまう。自分の心で感じ、自分の頭で考え、それを自分のものにしなければ、何もならないのである。
品物は、確かに袋に入れて渡してくれる。けれども心が欲する何かは、剥き出しのまま、ポンと私たちの前に落ちるだけである。それを入れる袋は、私たち自身の心の中にしか存在し得ないものだ。誰かが袋をくれるわけでもない、拾ってくれるわけでもない。自分で拾って、自分の袋に入れるしか方法はないのである。
心のどこか片隅に、いつも「アボシカ」を持って生きていたいと思っている。
文中の「この話」とは、どんなにことか。
文中の「行き届いた暮らし」とは、どのような暮らしか。
文中の( ア )に入れるものはどれか。
文中の「それ」は何を指すか。
この文章で筆者がもっとも言いたいことは何か。